
まずはここから!
このウェブサイトを初めてご覧になる方はまずこの投稿から読んでみてください!


オーストラリアでプレーをするためには?
オーストラリアでサッカーをするのに興味がある方はまずはこの記事からみてください!
まず初めに軽く僕の経歴を書くと、幼少期はオーストラリアのアデレードで育ち、その後は
筑波大学に入学、蹴球部の2軍でプレー。Jリーグに入れず社会人サッカーか海外でサッカーをするか悩んだ末、卒業後はドイツに渡る。
そこで2年間、4部昇格を目指して5部のチームでプレーするが4部には上がれず。
その後Jリーガーになる夢を諦めきれず、ドイツ5部のチームとの契約を解除し日本の社会人サッカーチームに入る。
関西1部でプレーした後、JFL・J3を目標にトライアウトに参加するがどこにも入れず。
現在はオーストラリアのアデレードに渡り、1シーズンプレーした後、オファーをもらい3部のチームと契約。
そんな目標に後一歩のところで達成できずに常に挫折感と戦っていた人生でした。
オーストラリアに渡る前までの話は多くのサッカー選手が同じ境遇にあるのではないでしょうか。
上を目指しながらプレーする選手の中で多く選手が結果が出ずに燻っています。
そんな選手からよく聞くのは、
「海外でサッカーしてみたい」
「海外でお金をもらいながらサッカーがしたい」
「将来のために英語を勉強したい」
「一度は海外で生活してみたい」
といった海外へのざっくりとした憧れです。
海外生活が長いので、よくアドバイスを聞かれますが、オーストラリアは毎度進オススメしています。
ビザが取りやすく、英語圏であり、日本人も多く、給料も良い。
ですが、なかなか一歩を踏み出す人はいません。
そこで、できるだけ海外へのハードルを下げるため、
「0からなにをすればオーストラリアでサッカーができるようになるのか」
の情報提供をすることにしました。
この記事では、
① 渡航前の準備
② チーム探しについて
③ オーストラリアでの仕事について
の3つをメインに詳しく書いています。
なにが必要で、なにが大変で、どんな手順を踏めばいいのか。
そんな、エージェントを使わずに自分で海外の道を開きたい人用に、
「0からオーストラリアでサッカーするまで」
を詳しく書いた有料記事を作りました。
有料にした理由は、本気で自分でオーストラリアへの道を開きたい人だけに読んでもらい、質問等あれば個人的に答えることができるからです。
これを読めばオーストラリアに来るまでの流れがほぼ全てわかると言っても過言ではないはずという記事を作ったので、本気の人だけをサポートしたいなと。
エージェントではないので1対1で話せるのも嬉しですし。
なので「ここもっと知りたい!」などあれば質問もどんどんしてください。
「海外でサッカーがしてみたいけどエージェントは使いたくない」
「海外に出て、夢に向かって再チャレンジしたい」
「海外で仕事・勉強しながらサッカーをしたい。」
そんな僕と同じ思いの方はぜひ読んでみてください。
記事はこちらから購入できます!
記事:オーストラリアに行くため0からの準備
記事内にできるだけ詳しく参考URLなども載せて書いていますが、質問等あればご連絡ください!
購入後、
【有料記事】オーストラリアに行くため0からの準備
↑この記事を読むためのパスワードがメールに送られます。
パスワードを入れたら読めるようになります。
興味のある方はぜひ!
質問は↓のInstagramへご連絡ください。

ちょっとでも応援したいなって思っている人のため
最近インスタグラムのフォロワーが1000人に近づいたこともあり、インスタからウェブサイトを見てくださる方が増えました。
加えて、オフ期間を使って様々な方にお会いすることができたこともあり、ウェブサイトの観覧数がかなり増えています。
ありがたいことです。
では、このウェブサイトを見てくださったり、僕に個人的に会ったりし、「応援したい」と思ってくださっている方へ。
この内容はサポーターページにも書いていますが、改めてここでも書こうと思います。
まずは応援してくださった方へのリターンから。
リターンと言っても僕はまだまだ微力で、モノでお返しすることは難しいのが現状です。
ただ、一緒に「夢を追いかける」ことに挑戦することができると思っています。
応援してくださる方は何か自分でも挑戦していることがあります。
自分の仕事だったり、企業だったり。
ただ、「Jリーガー」という夢はかなり特殊なのではないでしょうか。
特に26歳という歳で。
加えて僕は個人的にあと2年(28歳になる年)までと期限を決めています。
そんな期限付きの夢のために毎日・毎分一歩一歩進んでいく姿を見てもらいたいなと思っています。
そしてこの姿を応援して、「じゃあ私も頑張らないと」と少しでも思っていただく
この「モチベーション」が最大のリターンかなと思っています。
また、僕には自分がプロになること以外にも夢はあります。
それは「サッカーを諦める人を減らす」ことです。
現状、高校・大学を卒業してサッカーを止める選手がほとんどです。
ポテンシャル的にはプロにも劣らない選手が、お金や環境を理由に辞めていきます。
そして数年後夢を諦めたことに後悔するという負の流れがよく見られる光景です。
原因は様々ではありますが、やはり学生とプロの間に位置する「社会人サッカー」という存在が微力すぎ、社会人サッカー=遊びという考えが染み付いていることが大きな要因の1つかなと考えています。
そこで、社会人サッカーの存在を「プロを目指せる環境」尚且つ「生活できるお金を得られる環境」にしたいと思っています。
そのためにはチームと提携する企業の数を増やし、選手に安定した職を与えつつサッカーにも集中してもらう。
また、サッカーレベルそのものを引き上げ、Jリーグとの差を縮める。
このようなことが必要になってきます。
もちろん今の僕ではほぼ無力に等しいですが、社会人サッカー選手としてステップアップを果たし、今後Jリーガーになれた時、大きな影響を与えることができると思っています。
そのために今から発信し、まずはサッカー選手として結果を出さなければなりません。
この2つの理由から発信し、応援を呼びかけています。
そしてサポートしてくださった方とより良い関係性を築き、今後の活動を応援していただくため、
オープンチャットに招待するというリターンの形を取らせていただいています。
オープンチャットは、匿名で参加できるLINEのグループのようなイメージで、
個人情報を送ることができなかったり、名前を好きに変えられたりとLINEに比べてプライバシーが守られるシステムなのが特徴です。
そこで僕の活動を発信したり、今後したいことを相談ベースでチャットできたらなと思っています。
もちろん入らなくても構いません。
サポート費の使い道
では、サポートしてくださったお金・モノの使い道を全て書いていこうと思います。
サポーターページから3つのプランを選びサポートすることが可能になっています。
この金額が低くないことは十分承知しています。
なので、不安がないよう、ここでも使い道を書こうと思います。
簡潔にいうと使い道は「サッカーの為の生活費」です。
サポーターページの下部にも載せていますが
食費(¥30,000)
交通費(¥20,000)
スパイク2ヶ月に1足(¥15,000)
整骨院・治療費(¥10,000)
プロテイン・サプリメント(¥5,000)
合計:¥80,000
が少なく見積もったサッカーにかかる月々の費用です。
お金は全てここに当てようと思っています。
余剰分でチームや社会人サッカーに還元できる活動をしたいとも思っています。(そんな内容も相談できたらなと)
今では金銭的なサポート以外でも、いろいろな人を紹介してもらったり、メンタルトレーニングや食事のアドバイスなど、プレーに直接つながるないようでのサポートもしていただいています。
全てはサッカーのため・夢のためだと思っています。
ものやお金だけでなく、声をかけてくださるファンの方々や試合に駆けつけてくださる方々がいることでも毎日やる気が出ています。
やる気が出ない日もありますが、応援してくださる方の期待を背負っているという良いプレッシャーを糧にして身体を動かしている日も少なくありません。
なので、「金銭的なサポートはちょっと。。」という方でもインスタやSNSで声をかけてください!
お待ちしております。
サポート方法
では最後に具体的なサポート方法を書き終わりたいと思います。
まずはサポーターページの下部からプランを選んでいただきサポートすることができます。
リターンは先ほども書いたようにオープンチャットへの招待になります。
そして食事に関しての情報提供やトレーニング方法、メンタルトレーニングなどのサポートも可能です。
インスタグラムまたはウェブサイトのお問い合わせフォームからご連絡ください。
インスタグラムの方が早く対応はできます。
個人的なご連絡もお待ちしてしております。
頑張って!と言ってくださるだけでもかなりのモチベーションになっています。
ちょっとでも応援したい・気になっている方のために書かせていただきました。
読んでくださりありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたいします!
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よろしくお願いします!

Thrive on Challenges
さて、タイトルの”Thrive on Challenges” とはどういった意味でしょうか。
結構難しいですよね。
正解の前に、このフレーズはいったいなんなのか。という背景から書かせてもらいます。
最近、名刺施作成やドリップバッグ作成をしたり、インスタに力を入れたり、ウェブサイトを少し見やすくするためにいじったりしていました。
加えて、応援してくださる方を集う活動も多少行っていました。
そんな活動をしていく中で、覚えてもらえるように何かキャッチコピーのようなものがあった方がいいとアドバイスをもらったことがきっかけでした。
そこから、
自分を表せるようなフレーズ、活動内容がわかりやすいフレーズ、覚えてもらいやすいフレーズ。。
そんなキャッチコピーを考える作業をずっとしていました。
キャッチコピーって、チラシの見出しや、CMでしか見たことなかったので、最初はなんのこっちゃ分からなかったです。
なので以前読んだキャッチコピーに関する本を引っ張り出してきたり色々調べたりして、今の自分を表せるフレーズを考えました。
いろんな言葉を調べたり、日本語、英語、ドイツ語で色々と試行錯誤して、完成したのがこのタイトルにあるフレーズです。
タイトルの “Thrive on Challenges”はこういった経緯で完成した、僕のキャッチコピーです。
意味は、直訳すると
「挑戦して成長する」
のようなフレーズになります。
ただ、この”Thrive” という言葉には
「もがきながら」「がむしゃらに」というニュアンスも含まれており、尚且つ
「成長」「成功」という意味もあります。
なので、
「もがきながらも目標を達成するために挑戦する」
という意味になります。
僕にとってこの「もがきながら」というところがポイントで、結構今までの人生にぴったりの言葉なのかなと思っています。
楽な方を選び、楽な安定した人生を選択できるチャンスは幾度もありました。
ただその道を選ばず、あえて難しい、険しい、イバラの道を選んできたような人生です。
自分のせいで「もがいて」いるのですが、それが個人的には楽しかったりします。
辛いことの方が多いですが。(笑)
そしてもがきながらもどんどん新しいことに挑戦して、人として成長していく。
そんな人生を望んでいます。
なのでこのキャッチコピーはピッタリじゃないのかなって思っています。
このキャッチコピーは僕の名刺にも入れてもらっているので、ぜひチェックしてみてください。
枚数限られてるので(笑)
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よろしくお願いします!

人生の優先順位
とあることがきっかけで、僕が大学時代に書いたブログの記事を読むことがあり、3年前のことですがあまり変わっていなかったのでこっちでも紹介します。
筑波大学蹴球部のサイトに載っているので、他の方のブログが気になる方はぜひそちらから。
こんにちは。
体育専門学群4年の中村脩人と申します。
これまで、蹴球部のキャプテン副キャプテン、主務副務、チーフトレーナーなど
蹴球部にとって大切な人たちがブログを書いてきました。
なぜかここで僕ですが、「サッカー人生と留学について書いて」と頼まれたので、やるしかない。
まず僕について軽く紹介させていただきます。
アメリカで生まれ、広島で育ち、10歳でオーストラリアに行き、
大学に入学するために帰国、
帰国子女枠で体育専門学群に入り、
大学生4年の夏にドイツに1か月留学。
蹴球部では現在B1でプレーしています。
ここだけを見たら結構すごいじゃんと思うかもしれません。
こいつはどんな活動をしているんだろうと気になるかもしれません。
しかし、残念ながら僕はサッカーしかしていません。
2軍にいながら何言ってんだと。
しかし、幼稚園からずっとサッカーが好きで、
サッカー選手になりたいという気持ちだけで大学に来て、
今もそのまま変化なく生きています。。。
自分の人生を振り返ると常にサッカーが中心に回っていました。
一番つらい思い出も一番楽しかった思い出も基本的にサッカーが関係しています。
ここからは、僕が人生で何を大切にしているのかと、
ヨーロッパに留学に行って何を思ったかの話をさせていただきます。
決して蹴球部がどうとかの話ではないです。
少し長くなるかもしれませんので、何度も言いますが、
蹴球部のことを知りたいなら今すぐ前の方々のブログを読んでください。
長澤のブログは個人的に好きです。
【#14 覚悟(4年/長澤皓祐)】
https://www.tsukubashukyu.com/2018/04/01/blog-7/
僕は10歳でオーストラリアに行きましたが、
サッカーはチームで一番目くらいに下手でした。
なのでチームで死に物狂いに練習して、
13歳の頃にできた親友とともに学校と食事の時間以外ずっと練習していました。
僕たちはサッカーも好きでしたが、遊ぶことも大好きで、
あれがしたいこれがしたいとよく話していました。
そんな中、僕たちの人生で何を優先すべきか、
一瞬ではっきりさせてくれた出来事があります。
それは15歳の時コーチに、
「お前たちの自分の中の優先順位ってなに?」
と聞かれたことがあり、
僕らはもちろん
「サッカー」 と即答。
次に友達、次に家族かな。。と答えました。
そしたら少し怒った様子で、「何言ってんだお前らは」と。
コーチは、「第一は絶対家族だ」と。
そして、
「友達は家族の中に入れろ。
家族のくくりに入らない友達はほっとけ、家族を増やせ。」と。
この瞬間から僕らは家族が一番になり、
親友も、親友ではなく家族になりました。
これが僕の人生の優先順位が決まった瞬間で、
この考え方は未だに変わっていません。
自分のためではなく、家族のためにサッカー選手になりたいと思い始めました。
(ただ、その親友といることで、僕の性格がどんどん彼に似てしまいました。
どんな性格かは言いませんが、僕の周りにいる人たちには日ごろから迷惑をかけていることでしょう。。。
ゴメンネ。)
その後ですが、サッカーをするために筑波大学に入りました。
正直そのころは筑波大学の存在すらも知らず、
‘日本 サッカー 強い大学’ で検索し、
そこで出てきた大学を片っ端から受けました。
ただプロになって家族を養うという思いは変わらず、
というかその思いだけで入学しました。
そしてこの大学でもまた家族が増えました。
色々あった大学生活で彼らに助けられました。
ありがたいことです。
そして先月、ドイツへ留学に行った際に感じたことは
「彼らはサッカーも家族なのかもしれない」
ということです。
というのも、サッカーを愛し、生活においてのサッカーの優先順位が高い。
しかもそれは選手だけでなく、サポーターや、バーでお酒を飲んでいる一般人まで。。
そしてピッチでは僕がこれまで経験することのできなかったポジション争いの激しさ、
サッカーに対する思いの強さ、
サッカー以外のことでの切り替えの良さを見ることができました。
すべてが僕が求めていたものでした。
大学とは違い、自分たちではなくその道のプロがすべてを管理してくれるので
サッカーに集中できる。
その代わりサッカーで結果を残さなければクビになる。
綱渡りのような世界で、一歩間違えれば一気に地獄。
その世界に飛び込むことはリスキーであり、実らないかもしれない。
しかし、僕の人生もなんやかんや綱渡りのようなものだったので、
このままもう少しの間この縄を渡り続けようかなと思った留学でした。
ここまで長くなりましたが、
こんな人も筑波大学にいるんだ~と軽く考えていただければ幸いです。
読んでくださりありがとうございました。
筑波大学蹴球部を今後ともよろしくお願い致します。
そして今後とも中村シュートをよろしくお願いいたします。
ではまた。
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よろしくお願いします!

自己紹介⑥帰国→現在
ドイツでの2シーズン目が終わろうとする中、コロナが再流行し、シーズン終了と同時にロックダウンになります。
このタイミングで、やはり故郷の日本でプロサッカー選手になりたいという思いが強くなり、Jリーグでプレーするために本帰国を選択します。
帰国
帰国後は元々少しお世話になっていたつくばFCで体を動かしながら、練習参加のために飛び回る生活をしていました。
いくつかのチームに参加させてもらいましたが、途中、踵の神経炎症という歩くだけで激痛が走る怪我を負ってしまいます。
ここで一度チーム探しはストップしてリハビリ生活を始めました。
リハビリ期間の間に移籍期間が終わり、海外移籍の選手は加入可能とはいえ、目指していたレベルのチームは補強を終えてしまいました。
焦りつつも数ヶ月間つくばFCでお世話になり、ドイツのつながりから房総ローヴァーズ木更津に加入します。
このチームで千葉県一部の2位で終わり、入れ替え戦に行きますが、3試合目で負けてしまいます。
念願の昇格とはなりませんでしたが、コンディションも上がっていたので、シーズン終了と共にステップアップすべくサイドチーム探しを始めます。
この期間中にパーソナルトレーナーの資格をとり、つくばのパーソナルジムでトレーナーとして働いていました。
身体の勉強をしながら仕事もできて、個人的にはかなり理想的な生活ができていたと思っています。
FC.AWJ
日本での1年間が終わり、練習参加や合同セレクションなどに数多く参加しましたが、希望していたレベルのチームはなく、路頭に迷います。
色々悩んでいた時、大学時代の先輩のつながりで関西一部リーグのFC.AWJを紹介していただきました。
代表の方とお話をさせてもらったところ、今後のビジョンも面白く、興味が湧きこのチームに加入することを決めました。
正直島での生活にも少し憧れていたので淡路島を拠点にするこのクラブが大変魅力でした。
今は負けが続いていますが、そんな中でもチームの活動は面白く、いいチームだなぁとよく感じています。
今の生活
違う記事にも書きましたが、今の生活は午前中に練習をして、午後に仕事に行っています。
時間に余裕はあまりなく、大変な日々ですが、今後の考える上で貴重た経験だと感じます。
最近様々な方とお話をさせていただく中で、これからの人生、どんなことをしていきたいかが固まりつつあり、人とのつながりやご縁の大切さを痛感しています。
大変長くなりましたが、これで自己紹介を終わろうと思います。
これからの活動にぜひご期待ください。
サッカー選手としても、人としてもどんどんチャレンジしていきたいと思います!
ありがとうございました!

自己紹介⑤ドイツ編
大学卒業後、「応援してくれている家族のため」プロサッカー選手になる夢を追ってドイツ・ボンへと旅立ちます。
この「サッカーをする意義」に関しては別記事で書いているのでぜひこちらから飛んで、読んでみてください。
ドイツでの生活
ボンは西にあるケルンという大都市の下にあり、その中でもかなり辺鄙なRheinbach(ラインバッハ)という田舎に1年目は住むことになります。
一応練習参加にで契約できたチームが準備してくれた家ですが、見た目は「廃墟ホテル」でした。
玄関を入ると、壊れた家具の山、電気は付かない、埃だらけ。
これまでの人生で絶望や、きつい経験を多く積んだ僕でしたが、色んな感情を通り越して笑ってました。
同じタイミングで入った日本人選手2人も同じ場所で、彼らは流石にシンプルな絶望が表情に出てましたが。。
そこから1年間、日本人選手3人(途中5人になり最後は4人になります)とハードな日々を過ごします。
全員仲は良かったのが救いで、人間関係は良好で、何かあったら助けてくれていました。
ドイツで味わったキツさ
人生初ドイツは旅行気分で、最初は全てが新鮮でキラキラしていました。
生活も、サッカー以外は自由でした。
給料は高くはなく、家はボロボロでしたが、時間がある時は街に出て探索したり、ドイツを味わったり、最初は楽しかったです。
最初は。
幸運にも1年目から試合には出してもらえ、勝ったり負けたりなそこそこの成績でした。
ただ、ここで僕のグローインペインが再発します。
ケアはしていましたが、身体を捻って蹴る癖のある蹴り方のせいで股関節に過度な負荷がかかり、少しのジョギングでも激痛が走るほどに悪化してしまいます。
ドイツでは6月に中断期間があるので、多くの日本人選手同様、僕も帰国して治療に専念します。
ただ2、3週間では僕の慢性的な蹴り方のダメージは取れず、かと言って染みついたフォームを改善するほどの時間もなく、治療半ばでドイツへを戻りました。
1年目の後期からはカップ戦もあり試合数も多く、冬になるにつれどんどん気温が下がり、怪我人にとっては過酷な条件下でした。
案の定、数試合を消化した後動けなくなり、ドイツでサッカーしかしていなかった僕は、何もなくなります。
リハビリ生活
この時期の生活は、
起きてリハビリ
簡単な食事
体が痛くない時はジム
勉強
リハビリ
食事
睡眠
そんな生活を繰り返していました。練習場までは遠いので基本部屋でリハビリをしていたので、部屋から出ない日もありました。
部屋から出ないと同じ家に住んでいる人とも会う機会がなくなり、一人で過ごす時間が増え、孤独と痛みとの戦いになります。
そんな生活を約1ヶ月続けたある日、ご飯が喉を通らなくなります。
元々ストレスが溜まると食欲が爆発して、大食いしてしまうタイプだったので、この経験は初めてでした。
おばあちゃんの葬式の後オーストラリアに帰った時以来の感覚でした。
こうして、練習はできない、足は治らない、食事は喉を通らない生活を繰り返した僕は等々本格的に体調を崩してします。
軽度の鬱になっていたのかもしれませんが、チームメイトにも話すことをやめ、一人、体調不良と戦いました。
夜中吐き気で目が覚めた僕は、そこから3日間ずっと吐き気が止まらず、寝ることもできず、水を飲んでも吐き気に襲われました。
2日目からは高熱が出て、汗だくになったり、寒くなったりを繰り返して、頭痛、腹痛、吐き気に悶えながら1週間過ごしました。
家中にある薬を片っ端から飲んでも治らず、最終的に「時間で解決」しました。
10日間くらい体調を崩していたせいで、体重は減り、げっそりしていた記憶があります。
キツすぎてあまり記憶に残ってないですが。
1年目シーズン終了
そんなきつい怪我期間を経て、なんとか復帰した僕は、シーズン最後の数試合に出場してチームを離れる決断をします。
それも、ドイツの5部でプレーしていた僕は、もっと上のカテゴリーに加入したかったからです。
ドイツ1年目が終わるタイミングでエージェントと話をして、来年はいくつかのチームに練習参加させてもらう口約束を交わして年末は日本に帰りました。
かなりのストレスが溜まっていたので、日本でリフレッシュして、またドイツでの練習参加に備えて体を作り、ドイツに備えて約1ヶ月間のオフシーズンを過ごします。
ドイツ2年目
オフ明け、ドイツに戻った僕は、前所属のチームの練習に混ぜてもらいながら他チームの練習参加に行く予定でした。
しかしドイツに戻って約1ヶ月が経った時、あの世界中の人々を苦しめた、「アレ」がドイツで本格的に流行り始めます。
コロナです。
それまではうっすらニュースで他国の状況を聞いていて、ドイツでも北の方で少し流行っている程度の話を耳にしていましたが、広まるのは一瞬でした。
そのため、3月の頭からチームとしての活動が一切なくなり、練習も、練習参加もできない日々が始まります。
コロナ流行
このタイミングで数人の日本人選手は帰国しましたが、僕を含めた3人の日本人選手は練習再開が早いことを信じてドイツに残る決断をします。
そこからは僕のホテルに3人で暮らしながら、トレーニングをして、食事をして、練習再開を願う日々でした。
何度も日本に帰るべきか否かのミーティングを3人でした思い出があります。
結局、コロナは全く治まらず、ロックダウンが実行され、公園でボールを蹴っていると警察に注意させるほど状況は悪化していきました。
そんな “耐え”の生活をしているとき、3人にとって最悪の悲報が入ります。
オーナーがコロナの影響でホテルの維持ができなくなり、取り壊しになるとの連絡でした。
しかも2週間後に。
家探し
そこからは生きた心地がしなかったです。
2週間後には帰る家がなくなる状況になり、でも新しく部屋を借りるお金もなく、サッカーはまともにできない。
今思えば本当によく日本に戻らなかったなと思います。
家を探すために、ドイツにいるすべての知り合いに連絡をとり、部屋を探してもらうか一緒に住めないかの交渉をして、毎晩食卓を囲みながら電話をかけた人数を共有する時間が設けられました。
結果はほぼ全敗。
かろうじて、ひとり暮らしをしている後輩が3人、最悪泊まっていいよという了承を得た程度でした。
しかも1、2週間くらいなら。
もちろん1、2週間以上いる予定だった僕らですが、家がなくなる日が来てしまい、全員の荷物を軽自動車より小さい車に詰めれるだけ詰めて必要最小限の荷物で各自の新居へと移動します。
デュッセルドルフ
デュッセルドルフという街は簡単に言うと、「見た目はヨーロッパ中身は日本」です。
日本人の人口がドイツの中でも群を抜いて多く、日本食屋も多く存在する街です。
これまで日本人どころかアジア人ま全くいない街に住んでいていた僕たちからすると夢のような場所でした。
街にで出ると日本が聞こえてくる環境にワクワクしました。
この時はサッカーのチームはなく、無所属のまま練習参加の連絡が来るのをエージェントから待つ日々でした。
毎日みんなで集まって公園で練習して、午後からはみんなでフラフラする。
そんな生活を送っていました。
たくさんの日本人の方とも出会え、楽しい街ではありましたが、サッカー選手が無所属なのはかなり精神的には不安定できつかった時期でもありました。
人生一のどん底
思ったより長くなってしまいましたね。
もうすぐドイツ編は終わります。
デュッセルドルフで精神的にも不安定な中、7月23日の朝、父からラインが入っていました。
母さんが亡くなった、と。
詳しいことは省きますが、父からのラインの通りでした。
そこから葬式などをするためにドイツを出て、1ヶ月間日本で過ごします。
そこでサッカーを続けるか本気で悩みますが、結局腹をくくってドイツに戻る決断をします。
ドイツ2チーム目
ドイツに戻ってすぐ、エージェントから練習参加の話が入ります。
チームは同じ5部ではありますが、地域が違う、いわゆる「お金持ちクラブ」でした。
そこにバスで8時間かけて移動して3日間練習参加をして、その場で契約することができました。
次の週には荷物をまとめてチームに合流し、自己最高額の給料をもらいながらサッカーをする環境をいただくことができました。
そのチームにいるときにコーヒーにハマり、ドイツ語を本気で勉強し、次のキャリアについて考えた、今の自分につながる決断を色々とできた期間でした。
これ以上は長くなるので書きませんが、シーズン終わりに日本に帰る決断をしてドイツ2年目を終わりました。
思ったより長くなってしまいましたね。
読んでくださってありがとうございます!
ではまた

自己紹介④ 大学生活
高校生最後に
「プロにはなれない」
宣言をされてから、頭が真っ白になりながらも次の選択肢を模索していきます。
その時に僕に合った選択肢は
1. 海外に行ってプロを目指す
2. 日本に帰ってプロを目指す
3. サッカーを辞める
この3つでした。
ただ、3つ目の選択肢はほとんど考えておらず、実質2つの選択肢の中から選びました。
僕は当時サッカーのことしか考えていなかったので、1の海外に行ってプレーを選択しようとしいました。
ただ、親は完全に大学に行ってほしい派でした。
親と色々話した結果、結局大学に進学すること決断をします。
その当時全く日本のサッカーシステムを知らない僕は、大学生になってからどうすればプロになれるのかを調べて、かなり厳しい道だということを知ります。
ただ、大学に行くと言ってしまった手前、後戻りはできないので、その中でもできるだけプロになれそうな大学を選ぶことにしました。
冗談抜きで、その当時、
「大学 サッカー 強い」
で検索して、ヒットした大学の名前を上から10校くらい保存して受けた記憶があります。
その中から、帰国子女枠で受けることができる大学に絞り、結局7校くらいに1次審査の書類を出しました。
受ける大学を決めてから、試験の日まで数ヶ月しかなかったので、そこから怒涛の勉強の日々が始まります。
サッカーを勉強しかしないくらいの覚悟で生活しないと受からないと言われていたので、覚悟は決めたつもりでしたが、いかんせん僕は
親友とオーストラリアで2人暮らし、しかもゲームとサッカーしかしてなかった人間です。
ちょっと救いだったのは本が好きで日本語の本を結構読んでいたことくらいでした
オーストラリアで受験生生活
この状況を親友に説明して、理解してもらうまでもかなり大変で、そこから、サッカーと勉強を親友に構う生活が始まります。
練習もチーム練の他に自主練、ジムなどしっかりやりながら、暇さえあれば勉強をして、親友がうるさくなってきたら一緒にゲームをしていました。
夜は部屋で寝る前に少し勉強をしたり、結構真面目に受験生をしていたのかもしれません。
ハードな日々でしたが、楽しく、充実した日々でした。
後がないのにも関わらず結構楽観的で、追い詰められた感じがなかったのが逆にストレスフリーで良かったのかもしれないです。
そして、受験のため1ヶ月くらい日本に戻り、試験を終えてすぐにオーストラリアに戻り、またサッカー漬けの日々に戻ります。
その時も、退団する発表をした後でしたが、チームは練習に参加させてくれ、練習試合も出ていました。
今思えば、ずっと人に恵まれていた人生でした。
そして、受けた大学いくつかに合格し、最終的に筑波大学を選択しました。
筑波大学に合格したのがわかったのは、僕がすでにオーストラリアに帰っていた頃で、親友と街に買い物途中にじいちゃんから電話がかかってきて知りました。
合格発表の日も忘れて、遊んでいました(笑)
大学は他にも選択肢がありましたが、日本の大学のことは何もわからない僕は、学費が安いし、サッカーも強いので筑波大学にしました。
今思えば、僕にとっても、親にとっても最高の選択でした。
10年ぶりの日本で大学生
日本人としての感覚は小学校に置いてきた僕は、大学1年目からかなり苦労します。
筑波大学蹴球部(サッカー部)にはフレッシュマンコースという仮入部期間があり、これを乗り越えてから本入部ができるシステムがあります。
言ってみれば「しごかれる期間」です。
その期間のザ・部活動に僕は順応できるはずもなく、浮きに浮きまくった記憶があります。
大変でした(笑)
ただ、そこで今でも仲のいい親友2人と出会いました。
やっぱ人には恵まれています。
そんなこんなで大学3年生までなんとか耐え、大問題はなく過ごしました。
まぁ少問題は多数ありましたが。。。
そんな生活をしていたとき、3年生の終わりに大いにやらかします。
そのせいで、忘れもしない2月14日、同期のみんなに呼び出され、ミーティングが開かれました。
結果、
「フレッシュマンコースをもう一度、新入生と一緒にするなら戻ってきてもいいよ」
という条件付きで”退部”になります。
同期にクビにさせられるのはかなり辛かったですね。
その時庇ってくれた人らは今でもありがたく思っています。
無所属生活から、再入部
もう一度フレッシュマンコースをして、再入部する決断をした僕は、2ヶ月間猛反省して、きたる日まで準備します。
この時期もかなりきつい期間でした。
周りの人たちに支えられながらなんとか乗り越えた2ヶ月間でした。
4月に入り、フレッシュマンコースが始まるまで、同期も数人としか話せませんでした。
新学期に入り、フレッシュマンコースが始まってからは、最初は新1年生としてみんなと練習をして、同期として仲良くなります。
ただ、ずっとそのままでいれるわけでもないので、一度みんなを集めて僕のこれまでの経緯を説明する時間をもらいました。
言ってみれば僕は“嘘”をついていたわけなので、責められてもおかしくはないと思っていましたが、みんな割とヘラヘラしてた記憶があります。
その日からの「1年生」としての生活は正直かなり楽しかったです。
フレッシュマンコースが終わり、再入団して、まが4年生として活動を始めた後も、その時の1年生たちとずっと一緒にいました。
卒業して3年が経つ今でも、同年代と会うより、当時の“同期”と会う機会の方が多いくらいです。
いい意味で「アホ」だった彼らは、やる時はやるし、ふざける時はふざけるような集団で、僕の性格に完全フィットしたという印象です。
もちろんタメの彼らとも絶交したわけではないので、たまに会ってます。たまーに。(笑)
そんなこんなで大学ももう終盤。
僕も世間一般的な「就活か、サッカーか」問題に直面します。
就職かサッカーか
これを言うと結構驚かれるのですが、最初は就職を考えていました。
就活を始めるきっかけに、大学に3000社くらい来られる説明会に参加し、さまざまな業界の、さまざまな職種のお話を聞いて周り、3日間にわたって約15社のお話を聞きました。
こんな機会を大学にいながらできたのは幸運でした。
そして、その3日間で僕は気付きます。
「就職は無理だ」と。
最初は安定した給料、やりがいのある仕事、世間体、そんなものを求めて就職を考えていましたが、
この会社で何十年、そこそこの収入をもらいながら毎日会社に通う自分を想像したときに、「まだ早い」と思いました。
という機会があってから、サッカー選手としてプレーし続ける選択で気持ちを固めます。
そのタイミングでドイツの話もあり、日本と海外の選択を比べながらプレーしていきます。
結果はサッカー環境と成長できる環境を取ってドイツに行く決断をします。
その決断も、母ちゃんと電話した時の
「ずっと応援するから好きなとこに行ってき」
の一言で決めました。
迷惑をかけっぱなしだった人生でしたが、まだこんなに応援してくれるんだと。
そんな親に、しっかり夢を叶えて恩返しがしたいとそこで強く思い、
「家族のため」
が、僕がサッカーを続ける意義になります。
そして1月、卒論を書き終えた僕は、みんなが卒業旅行に行く中、夢を追ってドイツへと旅立ちます。
大学時代編、終わります
長くなったので、次で終わろうと思います。
次はドイツ、そして帰国後編です。
読んでくださってありがとうございます!
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ではまた。

自己紹介③ やんちゃな高校生
さて、前回ではいじめられて、サッカーのおかげでいじめが終わったところまで書きました。
その後、小学7年生まで楽しく過ごしました。
軽く触れた親友のお話から今回の自己紹介を始めようと思います。
人生を変えた親友
出会いは僕が父ちゃんと公園でサッカーの練習をしていた時でした。
親友も親父さんとサッカーをしていて、やけにうまかった覚えがあります。
その日はお互いがそれぞれ練習して、しゃべらず終わりました。
そして、数日後、学校の行きしにそいつにばったり会います。
その公園を通って学校に行ってたのですが、同じ制服を着て同じ公園を歩いていました。
そのタイミングで少し話しを始め、聞くとそいつはギリシャ人のハーフで一個上の学年でした。
お互い英語もまだ拙く、カタコトでしたが、その日の学校終わりに一緒にサッカーをする約束をしました。
サッカー漬けの毎日
そこから僕らの人生が変わります。
そいつとの練習は本当にレベルが高くて、楽しくて、お互いが試行錯誤しながらいろんな練習をしました。
特に1対1の練習が好きで、半日時間ぶっ通しでやってたこともあります。
体力も技術もサッカーへの愛もそこでついたと思っています。
そいつは人生サッカーのことしか考えてなくて、サッカーのためなら学校も休むし、宿題はしないし、高校に進学するかも微妙なヤツでした。
そんな考えが大好きで、どんどん日本でいう「飛んだ」考えが染み付いていきます。
もちろん僕の親がそんな人生許すわけもなく、僕は嫌々勉強しながらできるだけそいつと一緒に練習していました。
中学校も高校も同じところへいき、お互いがお互いの友達と仲良くなり、どんどんグループがでかくなって、学校でよくある「カースト」の中でも上になる立ち位置になっていきます。
その中でもサッカーを本気でしているのは僕達2人だけだったので、周りがどんどんグレて行く中、ひたすらサッカーをしていた覚えがあります。
その当時の生活は、僕が朝そいつの家に行き、勝手に入ってそいつを叩き起こし、準備している間朝ごはんをもらって、一緒に登校、学校の休み時間は一緒にしゃべって、学校が終わり次第公園に行ってサッカー。
もしくは学校終わり一緒にチームの練習に通っていました。
休みの日はサッカーして、そいつの家でご飯を食べて、ゲームして、サッカーして帰宅して寝る。
そんな生活でした。
今とあんまり変わってないかも。(笑)
とにかくずっと一緒にいて、今の「狭く深く」の人間関係もこの時の名残かもしれません。
高校生の僕
では、僕の自己紹介に戻ります。
そんな感じで中学校高校を過ごした僕は成績とサッカーの技術が反比例していきます。
サッカーはどんどん上達し、チームのレベルも上がり、高校1年生くらいで初めてサッカーで給料をもらえるようになりました。
ただ反面成績はどんどん悪くなり、卒業するスレスレを狙うようになります。
そして高校3年生になる前、父さんの仕事の関係で次はアメリカに行くと言われます。
ここで僕は一人暮らしをする決断をします。
この1年は僕にとって濃すぎる1年でした。
オーストラリアで一人暮らし
一人暮らしと言っても、ホームステイとしてホストファミリーの家に住む形です。
学校近くの家を見つけて住んでいました。
生活はまず車で登校、帰って勉強をして、ジムに行って、練習に行って、帰って寝る。。
そんな生活はただの理想です。
高校3年生の時は、周りの人たちに流され、学校に行っても昼休みに抜けて、ジムに行き、帰ってゲームをして練習に行く。そんなサイクルでした。
そしてどんどん学校に行かない日も増えていきます。
周りはどんどんグレて、薬に手を出すようになり、退学、逮捕、病院送り。。 そんな人間が増えていきます。
そんなヤバい奴らですが、僕からしたら仲のいい友達だったので、よくつるんでいました。
高校3年生当時、僕の親友は卒業してギリシャに戻ってサッカーをしていたので、一人暮らしの僕は必然的にそいつらと一緒にいる時間が長くなっていました。
ただ、ヤバい奴らもヤバいなりにいい人で、僕がサッカーを本気でしているのを知っていたので一度もタバコも葉っぱも薬も回してきませんでした。
外部の人間が僕に勧めても「そいつはサッカー選手になるからやめろ」と止めていたくらいです。
いい人なのか悪い人なのか微妙なところですが、そんな彼らが僕は大好きでした。
今では本物のワルになるか更生して仕事をしているかの2択で、更生組(笑)とはいまだに連絡を取っています。
一人暮らしの最初2ヶ月くらいは、そんな感じで楽しさが勝っていました。
しかし、どんどんホームステイ先からの扱いが雑になり、そのキツさから引っ越しを繰り返すことになります。
結局4ヶ月くらいの間で3回引っ越しました。
そして最後の引っ越しを終えた頃、キツすぎるニュースが入ってきます。
人生どん底
ある練習の日、早めに練習場に着いた僕はロッカールームで着替えていました。
すると父さんから電話がかかってきて、ばあちゃんが死んだと聞かされます。
そのままロッカールームで放心状態になり、チームメイトが到着しても一言も喋らず座っていました。
そして練習着に着替えて、スパイクを履いて、練習場に入ったところで監督が異変を感じ、「どうした?」と声をかけてくれたあたりから涙が止まらなくなりました。
ただ、なぜかそこで強がった僕は「体調が悪い」とだけ伝え、家に帰らせてもらいました。
帰りの車は涙でほとんど前が見えないし、スパイクのままだったのでアクセルは踏みづらいし、家に帰ってもホストファミリーに話せるような関係ではなかったので、一人部屋で泣くことしたできませんでした。
学校ももちろん行かず、練習だけ参加して、3日後の試合のタイミングで監督だけに報告して、試合をしてからようやく日本への飛行機に乗ります。
変なプライドで、どうしても試合をしてから帰りたかったのでこのタイミングにしました。
葬式後すぐまたオーストラリアへ
日本で葬式をあげてすぐ、オーストラリアへ帰国しまた一人の生活に戻りますが、精神的には不安定でした。
学校は全く行かなくなり、練習だけ行く日々になりました。
午前中自主練をしに遠くにあるグラウンドまで運転して、自主練を2時間くらいして、帰って休んで練習に行く。
たまに人と喋ってると涙が出たり、一人になって涙が出たり、ふと瞬間に涙が出たり。。。
本当にどん底の精神状態だったと思います。
そうこうするうちに6月になります。地獄の日から2ヶ月ちょっと経ったタイミングで朗報が入ります。
親友が帰ってくると。
しかも一人暮らしをすると。
あのタイミングで帰ってきてくれて本当に良かったと今でも思います。
そこからの話はめちゃくちゃ早く進み、その報告から約10日後に2人で暮らし始めます。
それも知り合いのホストファミリーの家でしたが、ホストマザーがほとんど家にいなかったので一軒家を僕達2人で使う生活になりました。
しかもめっちゃ広い家を。
最高の半年間
その年の前半とは打って変わり、最高の半年を過ごします。
朝少し学校へ行き、帰って親友と練習して、ご飯食べながら4、5時間ゲームで対戦して、そこからチーム練習に一緒に行き、外食して帰る。
チームもプロの下部組織に同じタイミングで加入でき、プロが本格的に見えてきており、本当に楽しい毎日でした。
サッカーもゲームも本気の勝負を毎日していて、負けた方は一日中機嫌が悪く、勝った方はずっとちょっかいを出す。みたいな性格の2人でした。
分岐点
ここでまたもや人生の分岐点が現れます。
ユースの監督から、「外国人枠が残ってないからプロには上げられない」と告げられます。
この時点で、オーストラリアでサッカーをする意味がなくなってしまいました。
地獄から、最高の生活になったと思いきや、全てを白紙にする報告。
ここでまた区切ります。
中学高校はそんな感じで、ぐれるかグレないかの瀬戸際をサッカーでつなぎながら生きてきた5年間でした。
読んでくださってありがとうございます。
また、次回。

自己紹介② 人生初いじめられっ子時代
前回、小学3年生の終わりにオーストラリアへと引っ越す宣言をされたところで終わりました。
この時点で、子供ながらに僕の人生も終わったと思った瞬間でした。
この宣言を受けてからの記憶はあまりありません。
クラスのみんなにお別れ会をしてもらって、いろんなプレゼントをもらったことを軽く覚えている程度です。
オーストラリアへの引っ越し
そして小学4年生前、10歳の僕は家族とオーストラリアへ引っ越します。
場所はアデレードという、田舎の街でした。
西に行けば山、東に行けば海。
そんな場所でした。
今思えばいい感じに栄えた田舎みたいなイメージで、住みやすいところでした。
が、そんな余裕は当時の僕にはなく、とりあえず生活になれることに精一杯の日々でした。
引っ越してすぐ、僕は語学学校に通い始めます。
そこで、様々な国の生徒と一緒に勉強して、遊んで。。という生活をしたかったですが、結局そこにいた日本人の子と仲良くなってずっと一緒にいた記憶があります。
でもこのままじゃまずいと子供ながらに感じた僕は、数ヶ月で現地校への転校を決意します。
人生2度目の分岐点
この転校が、オーストラリアに引っ越したことの次に、僕の人生の分岐点になったと今でも思っています。
僕が転校した学校は、地域の子供たちが通う普通の学校でしたが、ここで学校で初めての「アジア人」になってしまいます。
この学校はクリスチャンの学校で、毎週教会に行くようなところでした。
クリスチャンでもなんでもない、唯一のアジア人の僕は、浮きに浮きまくり、1年弱くらいいじめられます。
まず英語が話せない、話せないから授業についていけない、持参する弁当も全然違う、日本人。そんな小4はもちろんいじめられます。
最初の数ヶ月は正直覚えてないです。
辛すぎて記憶を消すって本当にあるんだなーって最近ようやく気付かされました。
そんなきつい数ヶ月を過ごして、とある休みの日、いつもは違う球技で遊んでいたのですが、急にサッカーを始めました。
そこに、きっかけは覚えていませんが、参加させてもらうことになり、一緒にサッカーをします。
最初は、いじめられているのでもちろんパスなんてきません。
ですが、徐々に僕も慣れてきて、相手の一番人気だったヤツからボールを奪取し、本気で削りにくる相手をかわして、最後はオーバーヘッドでゴールを決めました。
このゴールを決めた瞬間、今まであれほどいじめてきた僕のところに全員駆け寄ってきてめちゃめちゃ祝福されました。
気づいたら20人くらい僕の上に乗ってました。
「お前そんなのできたの?」
「日本でサッカーしてたの?」
「今どこでサッカーしてるの?」
そんなことを一気に聞かれた気がします。
そんな1回の昼休み、1つのプレーで、いじめが終わりました。
本当に、しっかり、終わりました。
そこからは俗にいう青春を楽しみました。
オーストラリアの小学生は7年生なので、残りの3年間くらいめちゃくちゃ楽しかったです。
それまでほとんど喋れなかった英語も、昔のヤンチャなトラブルメーカーに戻るくらい喋れるようになり、普通な学生として生活するようになりました。
これと並行してサッカーも地域でトップクラスに強いところに入れてもらい、楽しい日々を過ごしました。
5、6年生の時には今も仲のいい親友と知り合い、ずっとサッカーをする毎日でした。
そんな小学7年生までを過ごした僕は、中学校に進学します。
そこではまた新たな出会いもありました。
こんなところで「自己紹介②」を終わろうと思います。
また、次回。
読んでくださりありがとうございました!