自己紹介③ やんちゃな高校生
さて、前回ではいじめられて、サッカーのおかげでいじめが終わったところまで書きました。
その後、小学7年生まで楽しく過ごしました。
軽く触れた親友のお話から今回の自己紹介を始めようと思います。
人生を変えた親友
出会いは僕が父ちゃんと公園でサッカーの練習をしていた時でした。
親友も親父さんとサッカーをしていて、やけにうまかった覚えがあります。
その日はお互いがそれぞれ練習して、しゃべらず終わりました。
そして、数日後、学校の行きしにそいつにばったり会います。
その公園を通って学校に行ってたのですが、同じ制服を着て同じ公園を歩いていました。
そのタイミングで少し話しを始め、聞くとそいつはギリシャ人のハーフで一個上の学年でした。
お互い英語もまだ拙く、カタコトでしたが、その日の学校終わりに一緒にサッカーをする約束をしました。
サッカー漬けの毎日
そこから僕らの人生が変わります。
そいつとの練習は本当にレベルが高くて、楽しくて、お互いが試行錯誤しながらいろんな練習をしました。
特に1対1の練習が好きで、半日時間ぶっ通しでやってたこともあります。
体力も技術もサッカーへの愛もそこでついたと思っています。
そいつは人生サッカーのことしか考えてなくて、サッカーのためなら学校も休むし、宿題はしないし、高校に進学するかも微妙なヤツでした。
そんな考えが大好きで、どんどん日本でいう「飛んだ」考えが染み付いていきます。
もちろん僕の親がそんな人生許すわけもなく、僕は嫌々勉強しながらできるだけそいつと一緒に練習していました。
中学校も高校も同じところへいき、お互いがお互いの友達と仲良くなり、どんどんグループがでかくなって、学校でよくある「カースト」の中でも上になる立ち位置になっていきます。
その中でもサッカーを本気でしているのは僕達2人だけだったので、周りがどんどんグレて行く中、ひたすらサッカーをしていた覚えがあります。
その当時の生活は、僕が朝そいつの家に行き、勝手に入ってそいつを叩き起こし、準備している間朝ごはんをもらって、一緒に登校、学校の休み時間は一緒にしゃべって、学校が終わり次第公園に行ってサッカー。
もしくは学校終わり一緒にチームの練習に通っていました。
休みの日はサッカーして、そいつの家でご飯を食べて、ゲームして、サッカーして帰宅して寝る。
そんな生活でした。
今とあんまり変わってないかも。(笑)
とにかくずっと一緒にいて、今の「狭く深く」の人間関係もこの時の名残かもしれません。
高校生の僕
では、僕の自己紹介に戻ります。
そんな感じで中学校高校を過ごした僕は成績とサッカーの技術が反比例していきます。
サッカーはどんどん上達し、チームのレベルも上がり、高校1年生くらいで初めてサッカーで給料をもらえるようになりました。
ただ反面成績はどんどん悪くなり、卒業するスレスレを狙うようになります。
そして高校3年生になる前、父さんの仕事の関係で次はアメリカに行くと言われます。
ここで僕は一人暮らしをする決断をします。
この1年は僕にとって濃すぎる1年でした。
オーストラリアで一人暮らし
一人暮らしと言っても、ホームステイとしてホストファミリーの家に住む形です。
学校近くの家を見つけて住んでいました。
生活はまず車で登校、帰って勉強をして、ジムに行って、練習に行って、帰って寝る。。
そんな生活はただの理想です。
高校3年生の時は、周りの人たちに流され、学校に行っても昼休みに抜けて、ジムに行き、帰ってゲームをして練習に行く。そんなサイクルでした。
そしてどんどん学校に行かない日も増えていきます。
周りはどんどんグレて、薬に手を出すようになり、退学、逮捕、病院送り。。 そんな人間が増えていきます。
そんなヤバい奴らですが、僕からしたら仲のいい友達だったので、よくつるんでいました。
高校3年生当時、僕の親友は卒業してギリシャに戻ってサッカーをしていたので、一人暮らしの僕は必然的にそいつらと一緒にいる時間が長くなっていました。
ただ、ヤバい奴らもヤバいなりにいい人で、僕がサッカーを本気でしているのを知っていたので一度もタバコも葉っぱも薬も回してきませんでした。
外部の人間が僕に勧めても「そいつはサッカー選手になるからやめろ」と止めていたくらいです。
いい人なのか悪い人なのか微妙なところですが、そんな彼らが僕は大好きでした。
今では本物のワルになるか更生して仕事をしているかの2択で、更生組(笑)とはいまだに連絡を取っています。
一人暮らしの最初2ヶ月くらいは、そんな感じで楽しさが勝っていました。
しかし、どんどんホームステイ先からの扱いが雑になり、そのキツさから引っ越しを繰り返すことになります。
結局4ヶ月くらいの間で3回引っ越しました。
そして最後の引っ越しを終えた頃、キツすぎるニュースが入ってきます。
人生どん底
ある練習の日、早めに練習場に着いた僕はロッカールームで着替えていました。
すると父さんから電話がかかってきて、ばあちゃんが死んだと聞かされます。
そのままロッカールームで放心状態になり、チームメイトが到着しても一言も喋らず座っていました。
そして練習着に着替えて、スパイクを履いて、練習場に入ったところで監督が異変を感じ、「どうした?」と声をかけてくれたあたりから涙が止まらなくなりました。
ただ、なぜかそこで強がった僕は「体調が悪い」とだけ伝え、家に帰らせてもらいました。
帰りの車は涙でほとんど前が見えないし、スパイクのままだったのでアクセルは踏みづらいし、家に帰ってもホストファミリーに話せるような関係ではなかったので、一人部屋で泣くことしたできませんでした。
学校ももちろん行かず、練習だけ参加して、3日後の試合のタイミングで監督だけに報告して、試合をしてからようやく日本への飛行機に乗ります。
変なプライドで、どうしても試合をしてから帰りたかったのでこのタイミングにしました。
葬式後すぐまたオーストラリアへ
日本で葬式をあげてすぐ、オーストラリアへ帰国しまた一人の生活に戻りますが、精神的には不安定でした。
学校は全く行かなくなり、練習だけ行く日々になりました。
午前中自主練をしに遠くにあるグラウンドまで運転して、自主練を2時間くらいして、帰って休んで練習に行く。
たまに人と喋ってると涙が出たり、一人になって涙が出たり、ふと瞬間に涙が出たり。。。
本当にどん底の精神状態だったと思います。
そうこうするうちに6月になります。地獄の日から2ヶ月ちょっと経ったタイミングで朗報が入ります。
親友が帰ってくると。
しかも一人暮らしをすると。
あのタイミングで帰ってきてくれて本当に良かったと今でも思います。
そこからの話はめちゃくちゃ早く進み、その報告から約10日後に2人で暮らし始めます。
それも知り合いのホストファミリーの家でしたが、ホストマザーがほとんど家にいなかったので一軒家を僕達2人で使う生活になりました。
しかもめっちゃ広い家を。
最高の半年間
その年の前半とは打って変わり、最高の半年を過ごします。
朝少し学校へ行き、帰って親友と練習して、ご飯食べながら4、5時間ゲームで対戦して、そこからチーム練習に一緒に行き、外食して帰る。
チームもプロの下部組織に同じタイミングで加入でき、プロが本格的に見えてきており、本当に楽しい毎日でした。
サッカーもゲームも本気の勝負を毎日していて、負けた方は一日中機嫌が悪く、勝った方はずっとちょっかいを出す。みたいな性格の2人でした。
分岐点
ここでまたもや人生の分岐点が現れます。
ユースの監督から、「外国人枠が残ってないからプロには上げられない」と告げられます。
この時点で、オーストラリアでサッカーをする意味がなくなってしまいました。
地獄から、最高の生活になったと思いきや、全てを白紙にする報告。
ここでまた区切ります。
中学高校はそんな感じで、ぐれるかグレないかの瀬戸際をサッカーでつなぎながら生きてきた5年間でした。
読んでくださってありがとうございます。
また、次回。