自己紹介⑤ドイツ編
大学卒業後、「応援してくれている家族のため」プロサッカー選手になる夢を追ってドイツ・ボンへと旅立ちます。
この「サッカーをする意義」に関しては別記事で書いているのでぜひこちらから飛んで、読んでみてください。
ドイツでの生活
ボンは西にあるケルンという大都市の下にあり、その中でもかなり辺鄙なRheinbach(ラインバッハ)という田舎に1年目は住むことになります。
一応練習参加にで契約できたチームが準備してくれた家ですが、見た目は「廃墟ホテル」でした。
玄関を入ると、壊れた家具の山、電気は付かない、埃だらけ。
これまでの人生で絶望や、きつい経験を多く積んだ僕でしたが、色んな感情を通り越して笑ってました。
同じタイミングで入った日本人選手2人も同じ場所で、彼らは流石にシンプルな絶望が表情に出てましたが。。
そこから1年間、日本人選手3人(途中5人になり最後は4人になります)とハードな日々を過ごします。
全員仲は良かったのが救いで、人間関係は良好で、何かあったら助けてくれていました。
ドイツで味わったキツさ
人生初ドイツは旅行気分で、最初は全てが新鮮でキラキラしていました。
生活も、サッカー以外は自由でした。
給料は高くはなく、家はボロボロでしたが、時間がある時は街に出て探索したり、ドイツを味わったり、最初は楽しかったです。
最初は。
幸運にも1年目から試合には出してもらえ、勝ったり負けたりなそこそこの成績でした。
ただ、ここで僕のグローインペインが再発します。
ケアはしていましたが、身体を捻って蹴る癖のある蹴り方のせいで股関節に過度な負荷がかかり、少しのジョギングでも激痛が走るほどに悪化してしまいます。
ドイツでは6月に中断期間があるので、多くの日本人選手同様、僕も帰国して治療に専念します。
ただ2、3週間では僕の慢性的な蹴り方のダメージは取れず、かと言って染みついたフォームを改善するほどの時間もなく、治療半ばでドイツへを戻りました。
1年目の後期からはカップ戦もあり試合数も多く、冬になるにつれどんどん気温が下がり、怪我人にとっては過酷な条件下でした。
案の定、数試合を消化した後動けなくなり、ドイツでサッカーしかしていなかった僕は、何もなくなります。
リハビリ生活
この時期の生活は、
起きてリハビリ
簡単な食事
体が痛くない時はジム
勉強
リハビリ
食事
睡眠
そんな生活を繰り返していました。練習場までは遠いので基本部屋でリハビリをしていたので、部屋から出ない日もありました。
部屋から出ないと同じ家に住んでいる人とも会う機会がなくなり、一人で過ごす時間が増え、孤独と痛みとの戦いになります。
そんな生活を約1ヶ月続けたある日、ご飯が喉を通らなくなります。
元々ストレスが溜まると食欲が爆発して、大食いしてしまうタイプだったので、この経験は初めてでした。
おばあちゃんの葬式の後オーストラリアに帰った時以来の感覚でした。
こうして、練習はできない、足は治らない、食事は喉を通らない生活を繰り返した僕は等々本格的に体調を崩してします。
軽度の鬱になっていたのかもしれませんが、チームメイトにも話すことをやめ、一人、体調不良と戦いました。
夜中吐き気で目が覚めた僕は、そこから3日間ずっと吐き気が止まらず、寝ることもできず、水を飲んでも吐き気に襲われました。
2日目からは高熱が出て、汗だくになったり、寒くなったりを繰り返して、頭痛、腹痛、吐き気に悶えながら1週間過ごしました。
家中にある薬を片っ端から飲んでも治らず、最終的に「時間で解決」しました。
10日間くらい体調を崩していたせいで、体重は減り、げっそりしていた記憶があります。
キツすぎてあまり記憶に残ってないですが。
1年目シーズン終了
そんなきつい怪我期間を経て、なんとか復帰した僕は、シーズン最後の数試合に出場してチームを離れる決断をします。
それも、ドイツの5部でプレーしていた僕は、もっと上のカテゴリーに加入したかったからです。
ドイツ1年目が終わるタイミングでエージェントと話をして、来年はいくつかのチームに練習参加させてもらう口約束を交わして年末は日本に帰りました。
かなりのストレスが溜まっていたので、日本でリフレッシュして、またドイツでの練習参加に備えて体を作り、ドイツに備えて約1ヶ月間のオフシーズンを過ごします。
ドイツ2年目
オフ明け、ドイツに戻った僕は、前所属のチームの練習に混ぜてもらいながら他チームの練習参加に行く予定でした。
しかしドイツに戻って約1ヶ月が経った時、あの世界中の人々を苦しめた、「アレ」がドイツで本格的に流行り始めます。
コロナです。
それまではうっすらニュースで他国の状況を聞いていて、ドイツでも北の方で少し流行っている程度の話を耳にしていましたが、広まるのは一瞬でした。
そのため、3月の頭からチームとしての活動が一切なくなり、練習も、練習参加もできない日々が始まります。
コロナ流行
このタイミングで数人の日本人選手は帰国しましたが、僕を含めた3人の日本人選手は練習再開が早いことを信じてドイツに残る決断をします。
そこからは僕のホテルに3人で暮らしながら、トレーニングをして、食事をして、練習再開を願う日々でした。
何度も日本に帰るべきか否かのミーティングを3人でした思い出があります。
結局、コロナは全く治まらず、ロックダウンが実行され、公園でボールを蹴っていると警察に注意させるほど状況は悪化していきました。
そんな “耐え”の生活をしているとき、3人にとって最悪の悲報が入ります。
オーナーがコロナの影響でホテルの維持ができなくなり、取り壊しになるとの連絡でした。
しかも2週間後に。
家探し
そこからは生きた心地がしなかったです。
2週間後には帰る家がなくなる状況になり、でも新しく部屋を借りるお金もなく、サッカーはまともにできない。
今思えば本当によく日本に戻らなかったなと思います。
家を探すために、ドイツにいるすべての知り合いに連絡をとり、部屋を探してもらうか一緒に住めないかの交渉をして、毎晩食卓を囲みながら電話をかけた人数を共有する時間が設けられました。
結果はほぼ全敗。
かろうじて、ひとり暮らしをしている後輩が3人、最悪泊まっていいよという了承を得た程度でした。
しかも1、2週間くらいなら。
もちろん1、2週間以上いる予定だった僕らですが、家がなくなる日が来てしまい、全員の荷物を軽自動車より小さい車に詰めれるだけ詰めて必要最小限の荷物で各自の新居へと移動します。
デュッセルドルフ
デュッセルドルフという街は簡単に言うと、「見た目はヨーロッパ中身は日本」です。
日本人の人口がドイツの中でも群を抜いて多く、日本食屋も多く存在する街です。
これまで日本人どころかアジア人ま全くいない街に住んでいていた僕たちからすると夢のような場所でした。
街にで出ると日本が聞こえてくる環境にワクワクしました。
この時はサッカーのチームはなく、無所属のまま練習参加の連絡が来るのをエージェントから待つ日々でした。
毎日みんなで集まって公園で練習して、午後からはみんなでフラフラする。
そんな生活を送っていました。
たくさんの日本人の方とも出会え、楽しい街ではありましたが、サッカー選手が無所属なのはかなり精神的には不安定できつかった時期でもありました。
人生一のどん底
思ったより長くなってしまいましたね。
もうすぐドイツ編は終わります。
デュッセルドルフで精神的にも不安定な中、7月23日の朝、父からラインが入っていました。
母さんが亡くなった、と。
詳しいことは省きますが、父からのラインの通りでした。
そこから葬式などをするためにドイツを出て、1ヶ月間日本で過ごします。
そこでサッカーを続けるか本気で悩みますが、結局腹をくくってドイツに戻る決断をします。
ドイツ2チーム目
ドイツに戻ってすぐ、エージェントから練習参加の話が入ります。
チームは同じ5部ではありますが、地域が違う、いわゆる「お金持ちクラブ」でした。
そこにバスで8時間かけて移動して3日間練習参加をして、その場で契約することができました。
次の週には荷物をまとめてチームに合流し、自己最高額の給料をもらいながらサッカーをする環境をいただくことができました。
そのチームにいるときにコーヒーにハマり、ドイツ語を本気で勉強し、次のキャリアについて考えた、今の自分につながる決断を色々とできた期間でした。
これ以上は長くなるので書きませんが、シーズン終わりに日本に帰る決断をしてドイツ2年目を終わりました。
思ったより長くなってしまいましたね。
読んでくださってありがとうございます!
ではまた