自己紹介④ 大学生活
高校生最後に
「プロにはなれない」
宣言をされてから、頭が真っ白になりながらも次の選択肢を模索していきます。
その時に僕に合った選択肢は
1. 海外に行ってプロを目指す
2. 日本に帰ってプロを目指す
3. サッカーを辞める
この3つでした。
ただ、3つ目の選択肢はほとんど考えておらず、実質2つの選択肢の中から選びました。
僕は当時サッカーのことしか考えていなかったので、1の海外に行ってプレーを選択しようとしいました。
ただ、親は完全に大学に行ってほしい派でした。
親と色々話した結果、結局大学に進学すること決断をします。
その当時全く日本のサッカーシステムを知らない僕は、大学生になってからどうすればプロになれるのかを調べて、かなり厳しい道だということを知ります。
ただ、大学に行くと言ってしまった手前、後戻りはできないので、その中でもできるだけプロになれそうな大学を選ぶことにしました。
冗談抜きで、その当時、
「大学 サッカー 強い」
で検索して、ヒットした大学の名前を上から10校くらい保存して受けた記憶があります。
その中から、帰国子女枠で受けることができる大学に絞り、結局7校くらいに1次審査の書類を出しました。
受ける大学を決めてから、試験の日まで数ヶ月しかなかったので、そこから怒涛の勉強の日々が始まります。
サッカーを勉強しかしないくらいの覚悟で生活しないと受からないと言われていたので、覚悟は決めたつもりでしたが、いかんせん僕は
親友とオーストラリアで2人暮らし、しかもゲームとサッカーしかしてなかった人間です。
ちょっと救いだったのは本が好きで日本語の本を結構読んでいたことくらいでした
オーストラリアで受験生生活
この状況を親友に説明して、理解してもらうまでもかなり大変で、そこから、サッカーと勉強を親友に構う生活が始まります。
練習もチーム練の他に自主練、ジムなどしっかりやりながら、暇さえあれば勉強をして、親友がうるさくなってきたら一緒にゲームをしていました。
夜は部屋で寝る前に少し勉強をしたり、結構真面目に受験生をしていたのかもしれません。
ハードな日々でしたが、楽しく、充実した日々でした。
後がないのにも関わらず結構楽観的で、追い詰められた感じがなかったのが逆にストレスフリーで良かったのかもしれないです。
そして、受験のため1ヶ月くらい日本に戻り、試験を終えてすぐにオーストラリアに戻り、またサッカー漬けの日々に戻ります。
その時も、退団する発表をした後でしたが、チームは練習に参加させてくれ、練習試合も出ていました。
今思えば、ずっと人に恵まれていた人生でした。
そして、受けた大学いくつかに合格し、最終的に筑波大学を選択しました。
筑波大学に合格したのがわかったのは、僕がすでにオーストラリアに帰っていた頃で、親友と街に買い物途中にじいちゃんから電話がかかってきて知りました。
合格発表の日も忘れて、遊んでいました(笑)
大学は他にも選択肢がありましたが、日本の大学のことは何もわからない僕は、学費が安いし、サッカーも強いので筑波大学にしました。
今思えば、僕にとっても、親にとっても最高の選択でした。
10年ぶりの日本で大学生
日本人としての感覚は小学校に置いてきた僕は、大学1年目からかなり苦労します。
筑波大学蹴球部(サッカー部)にはフレッシュマンコースという仮入部期間があり、これを乗り越えてから本入部ができるシステムがあります。
言ってみれば「しごかれる期間」です。
その期間のザ・部活動に僕は順応できるはずもなく、浮きに浮きまくった記憶があります。
大変でした(笑)
ただ、そこで今でも仲のいい親友2人と出会いました。
やっぱ人には恵まれています。
そんなこんなで大学3年生までなんとか耐え、大問題はなく過ごしました。
まぁ少問題は多数ありましたが。。。
そんな生活をしていたとき、3年生の終わりに大いにやらかします。
そのせいで、忘れもしない2月14日、同期のみんなに呼び出され、ミーティングが開かれました。
結果、
「フレッシュマンコースをもう一度、新入生と一緒にするなら戻ってきてもいいよ」
という条件付きで”退部”になります。
同期にクビにさせられるのはかなり辛かったですね。
その時庇ってくれた人らは今でもありがたく思っています。
無所属生活から、再入部
もう一度フレッシュマンコースをして、再入部する決断をした僕は、2ヶ月間猛反省して、きたる日まで準備します。
この時期もかなりきつい期間でした。
周りの人たちに支えられながらなんとか乗り越えた2ヶ月間でした。
4月に入り、フレッシュマンコースが始まるまで、同期も数人としか話せませんでした。
新学期に入り、フレッシュマンコースが始まってからは、最初は新1年生としてみんなと練習をして、同期として仲良くなります。
ただ、ずっとそのままでいれるわけでもないので、一度みんなを集めて僕のこれまでの経緯を説明する時間をもらいました。
言ってみれば僕は“嘘”をついていたわけなので、責められてもおかしくはないと思っていましたが、みんな割とヘラヘラしてた記憶があります。
その日からの「1年生」としての生活は正直かなり楽しかったです。
フレッシュマンコースが終わり、再入団して、まが4年生として活動を始めた後も、その時の1年生たちとずっと一緒にいました。
卒業して3年が経つ今でも、同年代と会うより、当時の“同期”と会う機会の方が多いくらいです。
いい意味で「アホ」だった彼らは、やる時はやるし、ふざける時はふざけるような集団で、僕の性格に完全フィットしたという印象です。
もちろんタメの彼らとも絶交したわけではないので、たまに会ってます。たまーに。(笑)
そんなこんなで大学ももう終盤。
僕も世間一般的な「就活か、サッカーか」問題に直面します。
就職かサッカーか
これを言うと結構驚かれるのですが、最初は就職を考えていました。
就活を始めるきっかけに、大学に3000社くらい来られる説明会に参加し、さまざまな業界の、さまざまな職種のお話を聞いて周り、3日間にわたって約15社のお話を聞きました。
こんな機会を大学にいながらできたのは幸運でした。
そして、その3日間で僕は気付きます。
「就職は無理だ」と。
最初は安定した給料、やりがいのある仕事、世間体、そんなものを求めて就職を考えていましたが、
この会社で何十年、そこそこの収入をもらいながら毎日会社に通う自分を想像したときに、「まだ早い」と思いました。
という機会があってから、サッカー選手としてプレーし続ける選択で気持ちを固めます。
そのタイミングでドイツの話もあり、日本と海外の選択を比べながらプレーしていきます。
結果はサッカー環境と成長できる環境を取ってドイツに行く決断をします。
その決断も、母ちゃんと電話した時の
「ずっと応援するから好きなとこに行ってき」
の一言で決めました。
迷惑をかけっぱなしだった人生でしたが、まだこんなに応援してくれるんだと。
そんな親に、しっかり夢を叶えて恩返しがしたいとそこで強く思い、
「家族のため」
が、僕がサッカーを続ける意義になります。
そして1月、卒論を書き終えた僕は、みんなが卒業旅行に行く中、夢を追ってドイツへと旅立ちます。
大学時代編、終わります
長くなったので、次で終わろうと思います。
次はドイツ、そして帰国後編です。
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ではまた。